カンボジア・ラオスの旅 [14] / 温かなラオス人ご夫婦 / アルミのスプーンを作る民家へ
Site1を見終え、運転手のおじさんはSite2へ向かうのだと思った。しかし、牛がのどかに生きる光景が広がるばかりで、Site2に向かう感じではなかった。
そして数分後。車は止まり、一軒の民家へたどりついた。(なんだ?なんだここは?)
photo: monokann - Instagram
民家の屋根の下にはラオス人と思われるご夫婦が何やら作業をしていた。何を作っているのだろう。
スプーンだ。
ラオスでは街中にアルミ製品がよく売られている。スプーン、栓抜き、キーホルダーなど様々な物があり、鉄に比べ持った気がしないくらいすごく軽い。聞くところによると、1964-1973年、アメリカ合衆国によってラオスには200万トンもの爆弾が投下された。未だ数多く残る不発弾を溶かしたアルミで、スプーンなどを使っているんだという。
movie: monokann:Making Aluminum Spoons in Laos - YouTube
そんな製造工程を見れるというんだから興味が湧かないはずがない‼︎ 工程は至ってシンプル。
[アルミスプーン製造工程]
①木の型に高温のアルミを流し込む
②固まったら型から取り出す
③更に冷ます
④ヤスリで削るなどして形を整える 終わり
お母さんの作業もリズムカルでしたが、お父さんは貫禄と余裕を感じる作業ぶり。
できたスプーンは輪ゴムで止められ、出荷されていくのだろう。
小屋の柱には、不発弾の一部と見られる部品が物置にされていた。
この民家のご夫婦は優しい笑顔とともに、慣れた手つきでスプーンを作っていた。共同作業にあたたかさを感じる。
民家の周りも、木造の家がまばらに並び、そこら中に牛が歩いているような穏やかな場所。そういう空気が含まれたスプーンなら、きっと使う人にも伝わるはず。人の気持ちは物に宿るのだから。
帰り際に「カメの置物かわいい‼︎ ください‼︎」って言ったら、さらに優しい笑顔で「10,000kip(約150円)ね。」と譲ってくれた、、、そこは商売・シビアだった(笑)。
環境が人を作るのか、人が環境を作るのか、よく考える。環境が穏やかであれば、人の気持ちも穏やかになるのだろうか。人が穏やかであれば、環境も柔らかくなっていくのだろうか。あなたの周りの環境もあなたが作ってしまっているかもしれないから、少し周りを見渡して見るのもいいかもしれない。
この二人がいつまでも元気でいてくれたら心底うれしく思う。
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*引用/参考資料
・D23 地球の歩き方 ラオス 2016~2017(ダイヤモンドビック社/2015年11月)
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カンボジア・ラオスの旅 [13] / さまざまな石壺・祭壇への祈り / そして繋がる歴史
先に進もうと思い先の方を見ると、蓋のような物が乗った石壺が見える。
Site1 唯一の蓋つきジャール。以前記載したように、仮に骨壷説が正しいのであれば、この蓋は荒らされるのを防ぐために乗せられたのではないかと考えられる。
また少し先に進むと、残った破片だけで形を再現する物があった。ちなみに、オレンジの札は、石壺一つ一つを管理するために使用されているようだ。
また、おそらく元々は石を二段に組んでいたと思われるものもあった。二つを重ねることでより高貴な扱いになるのだろうか。位の高い人に使用されたと予想する。
Sさんは常に僕の先を歩いていた。
洞窟もあった。
岩質を調べる事でジャールの石壺がいつできたのか解明できるはず。
洞窟の入り口には、細かな石を積み重ねた物がいくつも見られた。墓か祠かモニュメントか、何のために作られたのかはわからなかった。
洞窟の中には、祭壇が置かれていた。上の穴から差し込まれる光がとても神々しい。当時の人たちはここで祈りを捧げていたのだろうか。
当時どういう人たちがどういう目的で活動していたのかは、知る由もない。けれど、残る痕跡を頼りに当時の姿を探す事は、とても想像が膨らんで楽しい。今、僕はパソコンで文字を打っているわけだが、何百年後に生きる人たちは今の僕の気持ちをわかることなどきっとできないだろう。けれど、何百年後に残る痕跡を頼りに今を振り返ったりするのかな。歴史はわからない部分ばかりだけれど、そうやって人が常に繋がっていくことは素晴らしいことだと感じる。
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カンボジア・ラオスの旅 [12] / 調査団との出会い / 本当に自分がやりたいことを見つめ直す
緩やかな坂を下りながら他の石壺を見に行こう。
こちらには先ほどよりも多くのジャール(石壺)が点在していた。
一体、これらを運ぶために何人の人が動いたのだろう。
movie: monokann: Plain of Jars ジャール平原 Site 1 - YouTube
ぜひ共に現地の空気を味わって頂きたい。石壺と草原。それだけでエネルギーを与えられた気がした。
何やらジャール平原を調査している団体がいる。「何をしているんですか?」と聞くと、「土や石を調べて歴史を調査しているんだ。」という。その顔はすごく生き生きしているように見えた。本当にやりたいことをしているんだという顔。
彼ら彼女らを突き動かしている力は、純粋な興味からだろう。きっと給料は高いわけではない。けれど、自分が本当に好きな事・知りたいことを突き詰めるために活動する。すると、こんなにも晴れやかな顔ができるんだ。決意のある顔は、すごくかっこよく見えた。
人生は一回きりだとわかっていながら、案外自分の欲求からは目をそらしてしまいがちだ。そこには仕事や家庭などの現実的な問題がつきまい、気がつけば思った以上に時間は流れている。決断は遅すぎる事はない。純粋に何がやりたいか、自分の中の自分ともう一度会話してみてもいいのではないだろうか。
この調査団ならきっと素晴らしい功績を残せるんじゃないかと勝手に期待しています。
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*引用/参考資料
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カンボジア・ラオスの旅 [11] / たどり着いたジャールの石たち / 点在する存在感を感じる
Site1にたどりついた。Site1に着くと、カートに乗ってジャール平原へ向かうらしい。
ヨーロッパ系青年方に紛れ込み、Sさんと僕もカートに乗り込んだ。なんだか冒険が始まるようなワクワク感があった。
しかし、5分ほど乗ったら到着。案外あっけない。背の高いアロエの横を通る。
改めて"Visitors Guidelines to Plain of Jars"。ルールは守りましょうね。
傘を持つのがSさん。足取りは軽やかだ。
そして、ついにたどり着いたジャールの石たち!!僕は少し叫んだ。
なぜこんな石たちが
何個も何個も
形は崩れようとも
点在しているのだろう。
一緒に映るとなおさら大きさがよくわかる。
中は水とコケ
一通り見終わって先を見ると、まだまだありそうじゃないか!Site1だけでかなりの広さ。
ワクワクはまだまだ終わらない。
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・D23 地球の歩き方 ラオス 2016~2017(ダイヤモンドビック社/2015年11月)
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カンボジア・ラオスの旅 [10] / ジャール平原 / 紀元前1500年の謎
それでは、ジャール平原に訪れよう!と、その前に少し解説。
ピラミッドやストーンヘンジなど、まだまだ謎に秘められた遺跡は全世界に点在しているが、ラオス・シェンクワーン地方にも一つの遺跡がある。
" Plain of Jar ジャール平原 "
Jarとは"壺"の意味。
この地方には穴の空いた巨大な石壺が数カ所に残っている。その総数は1000個を超え、大きな物で3mを超えるものもある。しかし、その目的は未だ詳しくはわかっていない。巨人の酒壺説、乾季の飲み水の保管用壺説など、色々なことが言われている。中でも有力なのが石棺説、つまりは"骨壷"として使用されていた説だ。
1931年、フランスの考古学者コラニーによって、初めて調査が行われた。彼女は、壺の中から、人の骨や 歯、陶器の破片などを発見した。また、石壺の周辺で鍾乳洞を見つけたことで彼女は「遺体を埋葬し、その骨を石壺の中に入れて使用した」と推測した。
現在、現地では、幾つかの調査団が発掘や地質調査を行い、引き続き調査を行っている。(その調査団については後ほど)
見学はSite1〜3までの3箇所行くことができ、Siteによって、石壺の形や大きさ、周辺の環境などが異なるため、それぞれで発見がある。
愛嬌のある形や周辺の長閑な環境も相まって、見れば見るほど好きになっていく遺跡。
それでは、Site1からご紹介
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・D23 地球の歩き方 ラオス 2016~2017(ダイヤモンドビック社/2015年11月)
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カンボジア・ラオスの旅 [9] / 日本人女性との出会い / ジャール平原での心得"乗るな・捨てるな・描くな"
朝起きて、眠い目をこすりながら顔を洗い、歯を磨き、髪をセットした。そして、服を着替えながら、最後のカロリーメイト2本を食した。ジャール平原へのツアー車の時間を気にしながら、僕はあと何回朝のルーチンワークをするのだろうなんて考えていた。
ホテルの前にツアーのバンが到着したので、荷物を担いで飛び乗った。昨日、運転手のおじさんの話を聞いていると、仮に僕が10人ほどの団体ツアーに参加すると飛行機に間に合わないことがわかった。でもここまで来てジャール平原にいけないなんてありえない。そこで若干値段は張るが、2名の少数で回れるものを選択した。もう一人も日本人だという。
車に飛び乗ると、どうやら僕が先で、これからもう一人をピックアップしにいくという。少しの坂道を車が登ると数分後、ずいぶん立派なホテルにたどり着いた。
もう一人は少し準備に手間取っているようなので、周りを散歩してみることにした。ラオスは本当に広大な自然が広がっている。
家の色も自然に馴染み、やわらかな雰囲気を朝から感じていた。
よく目を凝らしてみると、
ずいぶん大きな家が、昨日の建設中の家みたいに木材の支えが付けられている。この建物だけは、どこか魔界の邪悪さを感じる。
今回の旅のお決まり。「道がいい」
辺りをうろちょろしていると、どうやらもう一人の準備が整ったようだ。ご対面。
もう一人の日本人は、女性だった。見た目から推測すると40-50歳といったところだろうか。なぜこの人は一人でラオスに、しかもジャール平原を訪れたのだろうと、興味が湧いてきた。
彼女はSさんといい、結婚もしていないとのこと。会社をしばらく休んで旅行に出ているという。話して見ると、目は合わせないがわりとおしゃべりな方なようで、居心地の悪さは感じなかった。
車はまずポーンサワンの観光案内所に到着した。ここで色々と手続きがあるようだ。
僕も中に入らせてもらうと、壁にジャール平原での注意が、ファンキーな絵で描かれていた。「石には、乗ったり、ゴミを捨てたり、落書きしてはいけないよ。」という内容。「そんなことしないよ!」と思う人が大半かもしれないが、過去やってしまった人がいたから、こういう注意書きができる。歴史は大切にしたい。
それでは、第一のジャールへと進んでいこう。
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*引用/参考資料
・D23 地球の歩き方 ラオス 2016~2017(ダイヤモンドビック社/2015年11月)
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カンボジア・ラオスの旅 [8] / 1分と1時間 × 街と集落 × 旅で開かれる心 / ラオス・シェンクワーン地方"ポーンサワン"へ
人種と時間感覚の差
心開かれる旅
最後の街ポーンサワンを散策
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※前回の続き
ラオス人の温和な時間感覚
旅も残り2日間。この日はジャール平原のあるシェンクワーン地方の"ボーンサワン"という街へ移動する。
昨日ホテルで今日移動するバスの予約をしていた。ホテルからバス停までの迎えの車が来る時間は8:30、バス出発は9:00だという。僕は7:30に起床し、朝食にカロリーメイトを食し、8:15分頃チェックアウトをし、8:30の迎えを待った。
しかし、時刻は8:30になったが迎えが来ない。少し不安になった僕はホテルの受付の兄ちゃんに尋ねた。
「迎えの車は、8:30にここ(ホテル)に迎えに来るでいいんですよね?」
「そうです。心配しないでお待ちください。」
まぁ少し遅れているだけかと、僕はホテルの玄関口をうろちょろして待った。
時刻は8:45。しかしまだ迎えが来ない。受付の兄ちゃんの顔を少し見ると「大丈夫大丈夫」という顔で返答した。時刻は9:00。予定のバスの出発時刻。もう一度尋ねると、「もう少しで来ますから安心してください」と返された。僕は「もうどうにでもなれ」と半ば開き直って待つことにした。
それから待つこと30分、時刻は9:30。ガタガタガタと遠くから車が来る音がする。どうやら来たらしい。迎えの車は少し大型のトゥクトゥクで、すでに10人ほどが乗っていた。僕は受付の兄ちゃんに手をあげ挨拶すると、彼も手を上げ満面の笑みで返してくれた。
運転手が降りて来て、僕の荷物を車の上へと置いた。そして、少し席を詰めてもらい、車は発車した。それからトゥクトゥクは更に3つのホテルを回った。身長の高いヨーロッパ系のカップル、アメリカ人の旅人女性、大学生のような韓国人カップル2組。座席はパンパンで、旅人女性と韓国人の男性2人は後ろで立っていた。3人は英語で、出身国や行く場所などを楽しげに話していた。
時刻は10:00。予定から1時間が過ぎて、バス停に到着した。
トゥクトゥクを降りるとすぐに8人乗りのバンに誘導された。5台ほどバンが止まっており、それぞれ別の場所に行くみたいだ。(昨日さんざん乗るのは"バス"と聞いていたが、結局バンだった。)物静かな運転手のお兄さんによって、再び各自の荷物が荷台に置かれていった。
中はかなり狭く、運転手を入れて8人パンパンに乗車した。このスペースで7時間乗りっぱなしというのもなかなか厳しそうだ。助手席は南米系の旅人の男性(天パー)、2列目は僕とアメリカ人の老夫婦(あとで教えてもらった)、3列目はヨーロッパ系の若めのカップルと旅人風の男性が座った。未開の土地で狭い空間に8人。こういうのを"運命共同体"というのだろうか?
荷物が積み終わると、バンはすぐに発車した。と思ったら、近くのガソリンスタンドで給油をするようだ。給油が完了し、仕切り直してポーンサワンヘ向かおう!
迎えのトゥクトゥクからガソリンスタンドまでの間、ラオス人についてずっと考えていた。前回、「ラオス人は温和な性格」と話したけれど、それは同時に「流れている時間がゆっくり」ではないかと気がついた。日本人は時間に正確すぎるけれど、ラオス人はルーズ過ぎたりもする。でも正確には、"ルーズ"ではなくてラオスでは"普通"なんだと。「1分や10分にとやかく言うな、気長にやっていこうじゃないか!」と言われている気がした。
ガタガタ道と集落と
7時間の道。僕は体質的に酔いやすいのだけど、あいにく酔い止めを忘れたため、ずっとガムを噛むことにした。バンが出発後、子供達がたわむれていた。
家は、マンションなどはなく、木造家屋が並ぶ。川もあって優雅な自然が広がる。そして、動画見て頂ければ伝わると思うが、とにかくバンが揺れる揺れる。ガタガタガタガタ、ガタンガタン。ラオスはインフラが整備しきれていない関係で、基本デコボコ道となっている。
出発から10分もせず、景色から家々が減り、広大な山々が広がる光景に変わった。
山を切り開いた細い道を通り、バンは結構なスピードで進んでいく。運転手のお兄さんは終始無表情で冷静だ。
走っていると、ちょこちょこ家が並ぶ場所がある。街というより集落に近いかもしれない。家と言っても、木造で壁もなく、嵐が来たらすぐに飛ばされてしまいそうな造り。けれど、ここにもちゃんと人が暮らしているようだ。こういった側面にもラオスという国内での格差を感じていた。
外の景色を見ているのも案外楽しく、気がつけば2時間ほどが経っていた。するとバンのスピードが緩まった。どうやら昼食タイム+トイレ休憩のようだ。
休憩所には、地元の食事からインスタント食品、乾燥物などが売られていた。「ここでお腹を下すわけにはいかない」と、何も買わず我慢をした。
ビアラオの垂れ幕もあった。暑い日に飲んだらどれほど美味しいだろう。我慢ガマン。
各々、車に乗っていた圧迫感やお尻の痛さから一時解放され、嬉しそうに時間を過ごしていた。僕はカロリーメイトを1袋食して、酔いに備えた。
トイレは有料、2,000kip(約30円)。日本ではトイレはどこでも自由に使えるけれど、アジアや南米なんかに行けば有料は珍しい物ではない。ここのトイレはやたらとホラー感があった。
トイレは手動で流すシステムだ。用をたしたら、桶で左側から水をすくい流していく。もちろんトイレットペーパーも、手を洗う場所もないのでご注意を。
出発間際、休憩所を探検していたら、猿?の瓶詰めがあった。なぜこんなことになったのだろう。。
道は切り開かれ続いてゆき、人は繋がっていく
さぁ、改めて進んで行こう。
なぜかわからないけれど、コンテナが崖ギリギリの所で止まっていた。奇怪・危険。
ちょうど半分ぐらい来ただろうか。不思議と感じていたのは、「今まで通ってきた道は誰かが通ったからできた道だ」ということだった。どんな世界や業界にも先に歩いている人がいて、その歩んだ道を追いかけて進んでいく。そして、途中で自分だけの道を探して、新しい道を作ったりしていく。「道の繋がりは、人の繋がり」なのではないかと、ぼーっとしながら感じていた。
助手席の男性は、何時間も乗っているツラさに堪え兼ねたのか、運転手のお兄さんに「あとどのぐらいで着くんだ?」と英語で聞いていた。けれどお兄さんは英語がわからず、寡黙な性格なようでその質問を無視していた。助手席男性はその反応に更にイライラを募らせていた。無理もない。
すると僕の隣のおばさまがクッキーを取り出してバンに乗るみんなに配り始めた。助手席の兄さんも少し心を落ち着かせたようだった。僕もありがたく頂き、お返しに日本のミルク飴をあげたら喜んでくれた。そこから、彼女らご夫婦との会話が始まった。
話を聞くと、2人はアメリカ・カリフォルニア出身で、旦那さんは会計士、奥さんは銀行員だったという。今は老後に入り2人で世界を回っているんだとか。僕もいとこがカリフォルニアに住んでいたことや、アメリカのオススメの場所はどこか?とか、色々話をした。途中、バンが今日一番揺れた時、僕が「遊園地みたいですね。」と言ったら、「リアル遊園地だわ。」って楽しげに笑っていた。楽しいひと時だった。
旅というのは不思議と心を開くことができる。たまたまか偶然か出会い、互いの話をする。すると、知らない場所で生きた人と人の間に自然な繋がりと、柔らかな喜びが生まれる。もう出会わないかもしれない、今日この時間だけかもしれない。けれど、だからこそ心を裸にして、壁を作ることなく素直に話ができるのではないだろうか。
少し瞼が重くなり、眠りに着いた。起こされた時は、2回目(最後)のトイレ休憩だった。場所は広大な自然の中。男性は草の中へ用をたし、女性は我慢するしかなかった。お尻の痛さも結構だった。
街に近づいて来たのか、徐々に家が増え始めてきた。到着は近い。
シェンクワーン地方"ポーンサワン"を散策
ガタガタ道を行くこと7時間。時間は夕方17:00。バンは無事、シェンクワーン県の県庁所在地"ポーンサワン"の街に到着した。設立は1970年代と比較的新しく、人口は6万人程の小さな街だ。
バンを降りると、ゲストハウスから迎えが来ていた。アメリカ人の老夫婦と握手をして、僕はチェックインとツアー予約のためゲストハウスへ向かった。
前日に予約したゲストハウス"The Hillside Residence"。部屋も綺麗で、設備も充実していて3,000円程と、よい内容。疲れた体を癒すことができた。
それでは少し街を探検してみよう。
中心街の"サイサナ通り"には、車が行き交い、幾つか飲食店やお店も並んでいた。けれど、街全体はゆっくりな時間が流れている印象を感じた。
外見は綺麗なマンション。しかし作りかけか取り壊しかで、使用されている感じはない。
建設途中の家。注目したいのは支えが全て木だということ。
とあるお家の中にいた人形。手と耳が奇妙に繋がっている。
先ほどバンを降りた場所は市場だったようだ。
通路でバナナが売られていたり、
カラフルなおもちゃが売られていたり、
鎌やスコップが売られていたりとさまざま。
カンボジアでも思ったけれど、やはり市場には活気とエネルギーが溢れる。
ラオスの魚はどんな味がするのだろう。
鶏肉を並べるのはアジアでの定番なのだろうか?
特徴的だったのは多くの白い麺が売られていたことだった。これは米から作られた麺で、"Feu フー"という料理に用いられる。
お腹が空いたのでフーを一皿いただくことにした。麺の喉越しはよく、出汁が効いたスープでとても美味しかった。なんだかもう一度食べたくなる味。
子供を背負いながら働く女の子もいた。学校ではなくお家の手伝いをしないといけないのだろう。
道がいい。
ポーンサワンのお家は、アジアとヨーロッパが合わさった雰囲気に、どことなく南国のような色合いを感じる。今まで見たことのない雰囲気の家だった。
日も沈んで来た。
暗くなってからも街の奥の方の道を歩いていたら野犬数匹に追いかけられた。逃げた。
photo: monokann - Instagram
最後に、明日のジャール平原に備えて、前祝いに乾杯しよう。
[monokannの醸造所と味紹介]
「Lao Brewery Co.」
HP: BeerLao - The National Beer Of Laos
ラオス内のほとんどのシェアを誇る"ビアラオ"。それを作るのが1971年設立のLao Brewery Co.。ラオスには、NAMKHONG(ナムコン)ビールもあるが、ビアラオのシェアは圧倒的。植民地の関係もあり、設立当初はフランスとラオスの合弁国有企業だったが、今ではラオスとカールスバーグ社の持株会社となっている。Lao Breweryはビアラオだけでなく、カールスバーグビールや ミネラルウォーター、炭酸飲料なども醸造している、日本的に言う"キリン"や"サントリー"のような大きな会社だ。
今回はBeer Lao Dark Lagerを。ほんのりと香ばしい香りに釣られ一口を口に含むと、気持ち良く舌を刺激する炭酸を感じる。その後、麦の甘さと、ラオス産の米による旨味が合わさり、徐々にAlc6.5%が口に広がり楽しめる。後味はしつこくなく、麦と米の味わいの余韻が残る。
なぜ楽しい時間というのは過ぎるのが早く感じるのだろう。意識とは違うところで時間が勝手に流れている感覚。そんな時間の中にいる時が、あとあと思うと一番幸せだったりする。
※カンボジア・ラオスの旅 no.9に続く →→→ 執筆中
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*引用/参考資料
・D23 地球の歩き方 ラオス 2016~2017(ダイヤモンドビック社/2015年11月)
・BeerLao - The National Beer Of Laos
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カンボジア・ラオスの旅 [7] / 頭蓋骨の記憶 × 食の気流れる市場 / 心優しい国"ラオス"に上陸
死者の記憶を探して
食の集まる場の活気
温和な国民性"ラオス"初上陸
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※前回の続き
頭蓋骨とカラフルブッダの"ワット・トメイ寺院"
前回、ポル=ポト政権の虐殺について書いたが、実際の現場「キリング・フィールド」にも訪れることにした。The Killing Fields、直訳すれば「殺しを行う場所」。カンボジアでもっとも多くの人が虐殺されたのは首都プノンペンだが、ここシェムリアップにもキリング・フィールドがある。それが「Wat Thmei ワット・トメイ寺院」だ。
ワット・トメイ寺院 map: Google マップ
入り口を抜けると、幾つかの小屋のような物が並んでいる。
一番手前の小屋にはブッダとナーガ像が静かに座っていた。
真ん中の赤く立派な小屋にはガラス越しに頭蓋骨が重ねられている。
この頭蓋骨は虐殺された方々の物。数十年前にこの地で多くの命が奪われたことを忘れないでいたい。
一番奥には、白いブッダがいた。透き通る目が忘れられない。
また、敷地内には格式高い建物がある。おそらくこれが境内。中に入ってみよう。
靴を脱ぎ中に入ると、中央にブッダが腰をすえ、壁と天井にはブッダに関する様々な絵が描かれていた。
絵に圧倒されつつもまずはご挨拶。膝をつき、手を合わせ、目を瞑る。「失礼いたします」と。
圧巻の絵たち。横壁には幸せを語るような情景がある。
ブッダと共に記念撮影をした。天国とはこういう場所なのかもしれない。けれど、不安のない中に不安を感じる表情が描かれる空間だと感じてもいた。神や仏を讃え、拝み、祈る。きっとその裏には、人の弱さがあるのだろう。
改めて中央のブッダに挨拶をして僕は境内を出た。すると、僕の靴を置いていた所に二人の男の子が座っていた。二人は僕に何かを恵んでほしいという表情と言葉を発した。内心、「靴が盗まれなくてよかった」と安堵しつつ、絵の中の祈る人々とこの子達を重ね合わせていた。この子達にとって、僕は一瞬でも仏のような存在に見えたのだろうか。祈られても、せがまれても、僕は彼らの期待する幸せを与えることはできないと、Noという表情をして、靴をはき、境内を後にした。
せっかくなのでワット・トメイ寺院の敷地内を探索してみよう。入り口周辺は立派だったが、裏側は質素な生活の場が広がっていた。おばあちゃんは洗濯中かな?
共同生活。家族もご近所さんも合わせて洗濯、合わせて外干し。洗濯物がよく乾きそうな太陽の日差しが差し込む。
おそらく修行中の坊主の青年がこちらを見ていた。
坊主達は複数人で1つの小屋が与えられているようだった。
食べ物が集まる場には"気"が流れる
寺院を後にした僕は、シェムリアップの雑貨屋が集まる場を訪れた。道路沿いにお店が連なり、中にもお店が集まっている。
ほしいものとか、必要なものってたくさんあるはずなのに、たくさん置かれると急に何がほしかったのかわからなくなることが多い。
中も様々なお店が並んでいた。色々見て回った結果、ド定番のアンコールワットTシャツ(寝巻き用)と友人へのプレゼント(小物入れ)を購入した。両親が大阪人の影響もあり、値切れるところは必ず値切るようにしている。価格を安くしてほしいというより、値切る際の交渉が楽しかったりするからだ。今回、Tシャツを買ったお店の店員はカンボジア女性だったのだけれど、600円のTシャツで、まずは相手はどこまでいけるのかを調べるために、「半額」と伝えて「No」と言われた。「じゃあいくらまで安くできるの?」と伝えて、「100円」値引きするぐらいだった。結局、交渉を重ねて、半額で購入した。ありがとう。
雑貨屋さんの少し奥に進むと地元の市場が現れた。
狭い通路を人が行き交い、店員は食材をさばき、お客は値段交渉をしたりしている。3代欲求の一つ、食欲。人の欲望が集まる場所には自然と"気"のようなエネルギーが流れ、活気が溢れるなといつも感じる。
野菜も果物も、
一個一個が"我こそは"と主張するようにこちらを見ている。色合いが本当に鮮やか。
魚の切り身は、魚の身からできていて、
鶏肉は、鶏の肉からできていて、
豚肉は、豚の肉からできている。
そんな当たり前を日本にいると忘れそうになる。
お母さんが肉をさばく姿を見ながら、僕らが口にする一切れ一切れの食材は、一つの命だったということをちゃんと心に留めておきたい。
お腹が空いたので、食事にすることにした。美味でした。
謎の猿のマスコット。面白いほど恐怖でしかない。
さらばカンボジア
長い長いカンボジアでの冒険もここで終わり。
次は、未開の国"ラオス"のルアンパバーンという街へ向かおう。
アンコールの遺跡群を巡ったり、トゥクトゥクドライバーと飲み会をしたりと、本当に濃密な日々を過ごすことができたと思う。次はいつ来ることができるだろう。発展し続けるカンボジアという国にきっとまた呼ばれることを願いながら、僕は次の国に向かうことにする。
ありがとうカンボジア。また会う日まで。
ラオス人民民主共和国とは
photo: ラオス - Wikipedia
2国目、2つ目の遺跡、ラオス・ジャール平原。その遺跡を訪れるために僕はこの旅に来た。
まずは、ラオスを少しご説明。
ラオスは、正式名称を"ラオス人民民主共和国"という。位置は、東南アジアのインドシナ半島にあり、中国/ベトナム/カンボジア/タイ/ミャンマーと多くの国と隣接する国だ。日本の本州とほぼ同じ面積だと言われ、その中に700万人ほどの人々が暮らしている。首都はビエンチャン。
ラオスでは文字の文献が多くは残ってはいないことや、考古学上も研究段階であることから、まだまだ謎が多い。ラオスの発展がわかってくるのは14世紀から。元々タイ系の民族であったラーオ族が「ムアン」という政治的な集まりを作ったことから始まった。1353年にファーグム王によりムアンをまとめた"ラーンサーン王国"ができた。中でも僕が訪れたルアンパバーンという街を都に定め、王国の基礎ができ始めた。その後、王国は(現在の首都)"ビエンチャン王国"や"チャンバーサック王国"などに分裂していくが、隣国ベトナムやタイの力に負け、勢力を弱めていった。
19世紀半ば以降、カンボジア・ベトナムを植民地としたフランスによって、ラオスもフランスの植民地となる。しかし、ラオスは経済的な発展がないと見限ったフランスは、植民地としては所有しつつ経費をかけずにした。その為、ラオスは鉄道などのインフラや、教育や医療の導入が遅れている現状がある。第二次世界大戦の影響で、日本軍がインドシナ半島でクーデターを起こした影響もあり、フランスは統治を中断した。と同時に、ラオス国内でも独立を求める運動が起き始める。その後、フランスの再植民地化やアメリカによる自国での内戦もあったが、1975年12月、ようやく王政が廃止され、現在のラオス人民民主共和国ができた。
このような歴史がある影響で、現在でもラオス国内では家計や教育、医療の格差などが続いている。例えば、教育では、基本は小学校の入学年齢は6歳だが、家計の手伝いや近くに学校がない影響などで学校にいけない子もいる。また、一旦入学しても、教師がしっかりとカリキュラムを教えられるレベルではないなどの原因で、留年率も非常に高いという。僕が訪れた時も、学校には行かず、畑仕事や店番などをしている少年少女によく出会った。しかし、ラオスはまだ発展途上国。今後、教育体制が整っていけば、ラオスは益々発展が期待できる国だと思う。
心の優しさ溢れるラオス人
無事ラオスに到着したのは夜。少しの不安を抱えていた僕だったが、入国審査の時にラオス人の心に触れる。
海外旅行に行ったことがある方ならわかると思うが、入国審査は大抵流れ作業で審査員は基本無表情であることが多い。まぁ何百何千という人を対応していれば、感情を込める余裕も理由もなくなってしまうこともよくわかる。けれど、ラオスの入国審査のお兄さんは「日本から来たんだね。ア・リ・ガ。。。?Thank youは日本語でなんて言うだっけ?」「"ありがとう"だよ。」「ア・リ・ガ・ト・ウ」と気さくな笑顔で接してくれたのだ。あんなに気持ちのいい入国審査は初めてだった。
ホテルへ向かおうと到着ゲートを抜けた時、また一つのほっこりする場面に立ち会った。空港のスタッフのお兄さん2人が荷物を運ぶカートに乗りながら遊んでいたのだ(写真右)。まるで子供みたいに無邪気で悪気のない、すがすがしく遊ぶ姿。「なんなんだ、ラオス人!みんないい人なのか?」と、僕は思わず口に出していた。
乗り合いバンの担当のおじさんもすごく笑顔で接してくれ、荷物も進んで持ってくれた。すでに空港でラオス人の温和な感覚を感じつつ、僕はホテルのあるルアンパバーンの街へと向かった。
無事ホテルに着き、チェックインと明日のバスの予約をした僕は、晩御飯を求め、街の散策に繰り出すことにした。道路からしてすごく綺麗な印象。
ルアンパバーンに訪れた際はぜひナイトマーケットへ。行き交う街も人もなんだかとても楽しそうに見える。
ヨーロッパのカフェのような、何ともオシャレな焼き菓子が売られていたり、
絵画もあれば、
蛇や蠍の瓶詰めがあったり、
和を感じるランタンがあったり、
美しい切り絵が売られていたりと、見ているだけで気持ちが楽しくなってくる。
せっかくだから何かを買おうと、色々な紅茶を売るお店の少年に話かけた。僕は幾つかをピックアップして、お金を払った。「写真を撮ってもいいかな?」とたずねると快く「どうぞ」と返してくれた。この顔を見ていただければ、きっとラオス人の温和な空気感がわかってもらえると信じている。
こちらも紅茶の出店。入れ物がデザインされていてとてもかわいかった。店番の少女も粋な目をしていた。
そろそろお腹が空いたので、ヨーロッパの街角のような路地のお店に入ることにした。
お店の中もアジアとは思えない雰囲気。昔、ラオスはフランス領だった影響もあり、フランスの文化が自然と取り入れられているのだろう。観光客もアメリカやヨーロッパの顔の人が多かった。
もちろん注文したのは、ラオス産ビール"Beer Lao ビール・ラオ"を頂こう。640mlを頼んだのだが、これで200円もしない。幸せな国だ。いつまでも飲んでいたい。
料理は、ラオスの定番料理"ラープ"を頼むことにした。肉や魚にレモンなどの柑橘系の汁や香草を混ぜて炒めた料理。とうがらしが辛すぎて、舌が痙攣した。その分、ラオビールの進みも早かった。食事で触れる文化もあるなと感じていた。
お腹も満たされたので今日は寝床に戻ることにしよう。ナイトマーケットも終わってゆく。
帰りに立ち寄ったコンビニには、キャップを被ったもじゃもじゃのエビスさんが立っていた。何者だったのだろう。
ラオスのコンビニも大抵の必要な物は売っているので、もしラオスに行かれる方はそんなに心配することもない。
ベッドの真上にある扇風機を見ながら、今日という日を振り返った。
わからないこと、知らないことはまだまだたくさんある。
僕がこれだけはやってはいけないと思っているのは、「Googleマップを見て、そこに行った気になり、満足してしまうこと」だ。目的地はあくまで指標でしかない。大切なのは、そこに行くまでにどんな人に出会い、どんな出来事があり、何を考え思うかということだと思っている。目的地に着いた瞬間もサイコーなのだけれど、後で思い返すと、すごく楽しかったと思うのは行くまでの道中だったりする。きっとそれは、道中が一番心が動いているからだと思う。
わからないこと、知らないことはまだまだたくさんある。初めの一歩は、立ち止まっていては辿り着けない方角へと繋がる唯一の一歩だということを、いつだって忘れないでいたい。
※カンボジア・ラオスの旅 no.8に続く →→→ 執筆中
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*引用/参考資料
・D22 地球の歩き方 アンコール・ワットとカンボジア 2017~2018(ダイヤモンドビック社/2016年12月)
・Tyrants and Dictators - Pol Pot (MILITARY HISTORY DOCUMENTARY) - YouTube
・D23 地球の歩き方 ラオス 2016~2017(ダイヤモンドビック社/2015年11月)
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カンボジア・ラオスの旅 [6] / カンボジア戦争博物館 / 武器を持つ子ども達 × 1歩先に地雷 × 強く笑う明日
虐殺される知識人
銃を抱える子ども達
平和という言葉を繋ぐ
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※前回の続き
カンボジア:争いによる残酷な歴史
4日目の日が昇った。外は相変わらずの快晴で、でも朝方は冷んやりと肌寒い感覚があった。
日本を発つ数週間前、僕は"地球の歩き方"を見ながら、一つ気になる場所があった。それが「カンボジア戦争博物館」だ。今思えば、なぜ惹かれたのかよく思い出せない。戦争を知っておきたいという安い正義感か、アニメ"ガールズ&パンツァー"を見ていた影響か、それともこの場所に呼ばれた気がしたからか。けれど、僕はここだけは訪れないといけない感覚があった。
「カンボジア戦争博物館」は、インドシナ戦争時や、カンボジア内戦時に使用された戦争兵器や当時の写真などが展示されている。カンボジアの歴史をまずは振り返る。
インドシナ戦争とは・・・
インドシナ半島は、中国の下側にある半島で、現在のベトナム・ラオス・カンボジアに加え、タイやミャンマーの地域を指す。当時フランス領土であった関係でフランスによってその名がついた。1946年、インドシナ半島でフランスとベトナム独立同盟(ベトミン)による争いが始まり、その争いは、ベトナム全土だけでなくカンボジアやラオスにまで広がっていった。一方、当時若干20歳前後の(後に国王となる)ノロドム・シアヌークは武力でフランスに対抗するのは難しいと考え、カンボジア独立運動を立ち上げ、フランスからの脱植民地化を目指し交渉を進めた。その後、1953年に遂にフランスから完全独立を達成し、1954年には、ジュネーヴ協定により和平が成立された。
photo: Cambodian Civil War - Wikipedia
カンボジア内戦とは・・・
カンボジアを独立に導いたシアヌークは、市民の信頼も高く、国王となった。しかし、すぐに王位を父親に渡し、カンボジアでの社会主義政策を開始した。当時、1965年頃はベトナムとアメリカによるベトナム戦争が始まった時。シアヌークはベトナム戦争では中立の立場を保っていたが、国内でのベトミンによる活動は黙認していた。その対応が気に入らなかったアメリカは、シアヌークが中国とモスクワに外遊している間に、"ロン=ノル"という男に力を貸した。彼はクーデターを起こし、カンボジアの首相にまで就任した。当然、シアヌークはその動きに反発し、当時カンボジア内に存在した共産主義勢力"クメール=ルージュ"と手を組んで、ロン=ノル政権と対立した。この対立がカンボジア内戦となり、50万人以上のカンボジア人が死亡したという。この内戦は、1991年にパリでカンボジア和平協定が成立するまでの22年間も続いた。
photo: Tyrants and Dictators - Pol Pot (MILITARY HISTORY DOCUMENTARY) - YouTube
ポル=ポト政権・・・
内戦中の1975年、首相はロン=ノルに変わり、"Pol Pot ポル=ポト"が政権を握った。ポル=ポトは、「原始共産主義」という、狩猟時代のように「得たものはその場で消費する=物を持たない=富を形成しない=階級・位の差が生まれない」という考え方を推奨した。実際に行った行為は残虐で、「知識人(と思われる人も含む)」を根絶するというもの。つまりは、虐殺だ。例えば、「本を読んだ=知識人=虐殺、海外へ行った=他の文化を知っている=知識人=虐殺、手が綺麗=農作業しない=知識人=虐殺」という具合だ。
また、ポル=ポトは、大人ではなく子供を積極的に活用した。13歳以下の子供に、兵士はもちろん、強制収容所の監視員や医者までさせたと言われている。知識のない子供に医療をさせることを想像してほしい。。。恐ろしさしかない。ポル=ポトは以下の指令書を発行している。
ポル=ポトの指令書・・・
「我々は独自の世界を建設している。新しい理想郷を建設するのである。したがって伝統的な形をとる学校も、病院も要らない。貨幣も要らない。 たとえ親であっても社会の毒と思えば微笑んで殺せ。今住んでいるのは新しい故郷なのである。我々はこれより過去を切り捨てる。 泣いてはいけない。泣くのは今の生活を嫌がっているからだ。 笑ってはいけない。笑うのは昔の生活を懐かしんでいるからだ。」
亡くなった方は、数百万人に及ぶという。こんな時代が数十年前にカンボジアであったことを覚えておきたい。
カンボジア戦争博物館へ
そんな様々な歴史を踏まえて、僕は「カンボジア戦争博物館」に訪れた。暇そうなおじさんに入場料の5ドルを支払い、いざ入り口を抜けた。"Welcome"という歓迎を受けて、空間の広さを確認する。生い茂る木々の中に多くの戦車が見受けられる。観光客は指で数えるほどしかいない。奥行きは長く、入り口左側にはミュージアム・ショッップがあり、右側にはヘリコプターも見受けられた。日本に暮らしているせいか、なんだか"博物館"と聞くと、綺麗な建物の中で、指紋のないケースに昔の物が保管されているイメージを持っていたが、なんという青空博物館だろう。
※始めに伝えさせて頂くと、僕は戦車やヘリコプターには詳しくありません。以下は、調べたなりにわかった機体の名前を記載していますが、もし間違いがあればお伝えください。詳しい方は教えて頂きたい。
僕はまず右側のヘリコプターを見ることにした。こちらは旧ソ連製の"Mi-24"のヘリコプター。映画ダイハードやアニメこち亀にも使用されている機体だ。奥には戦闘機もあった(名前はわかない)。
Mi-24の後ろから内部を覗くと、当時のそのままの姿があった。
戦闘機のエンジン部を見た。当時、ここから高熱が吐き出されていたのだろう。
戦車を間近で感じる
それでは、 戦車を見ていこう。その前に一言、「道がいい」。
戦争博物館では7割ほどの機体には説明文が添えられている。手書きが味を醸し出している。
始めは、T54(写真奥)。ソ連が作った中戦車で、1979年から1994年まで使用されていた。展示というより、より自然に(そのままに)戦車が置かれているという印象。手で触れ、自分の背丈と比べ、過去を感じることができる。戦車に乗るのはどんな気持ちなんだろうなんて考えていた。
続いても、ソ連が1962年に産み出した"DM.2"。DM2はcan swimという記載があるように、水陸両用車だ。内部を覗くと錆だらけだけれど、構造が少しわかる。
こちらはDCA 23mm、通称ZU-23。対空機関砲で、23mm口径の機関砲を発射する。戦車の上に取り付けていたパターンが多いという。
小型銃の軽さと重み
戦争博物館では、実際に使用されていた小型銃や爆弾を手に持つことができる。もちろん今はもう使えないようになっているからご安心を。持ってみると意外に軽くて驚いた。気持ちが高揚する一方で、すぐ後に怖さが体を揺すった。
腹ばいになりながら撃っていたのだろう。
13歳以下の子供たちは、どんな気持ちで銃の引き金を引いていたのだろう。
投下爆弾も持つことができる。一つ持つのも少し大変な重さ。もしこれが実際に爆発する本物であったらと考えると、戦争時の緊張感というのは常軌を逸していると感じた。
地雷がある、次の一歩はどこを踏む?
地雷。それは地中に埋められ、人や機体が上に乗ると起爆する兵器。人の足を奪い、腕を奪い、人生を変える兵器。その恐ろしさや空気を感じることができた。
展示されている地雷。
その威力は地面を吹き飛ばす。あまりの穴の広さに恐怖しかなかった。
地雷の危険がある場所には「Danger!! Mines!!」という警告板が置かれていた。
例えば、この看板が無くて、普通に道を歩いていて、次の一歩先に地雷が埋まっているとしたら。僕らは自分の足を進めることができるだろうか。
地雷探知機を使用する人の模型。命をかけた仕事。
地雷の被害を受けた人々。同情するのも違う、悲しむのも憐れむのも違う。ただ、そういった事実があったことを心に止めないといけない。そして、次に繋げないようにしていかないといけない。
足がない。腕がない。それでもなぜ彼らは笑えるのだろう。本人は恨みを感じても、その気持ちをどこにぶつけていいかわからないはず。人を恨んでも、足や手が返ってくるわけではない。それでも彼らは笑い、努力し、"普通"という生活を生きていく。
強さというのは、内面から出てくるものだと痛感する。喜びも悲しみも理解し、自分の中の決意が固まると、それは強さとなり表情に表れていく。ちびまる子ちゃんのTシャツを着る少年の顔を僕は忘れることができない。
言葉なしで
最後に幾つかの写真を言葉なしに載せたい。
「平和」という言葉
なぜ「平和」という言葉があるかと考えると、「虐殺」や「戦争」という逆の黒い言葉があったからだと感じる。「どうにかひどい世界ではないでほしい」という願いや希望を込めて、世の中にはポジティブな言葉があるのではないだろうか。「人生は楽しんだ者勝ちだ」と誰かが言っていた。それは、どんなにひどいことをされても、理不尽だと思う世の中でも、明日を思い強く笑った者のことを指すのだと思う。年月が経っても、人は次の世代へと繋がっていく。次の世代が笑える世の中を僕らは作っていくべきなのだと、小さな正義感を振りかざして、僕はカンボジア戦争博物館を後にした。
※冒頭でも書いたように、戦争博物館にはミュージアム・ショップもある。"Danger!! Mines!!"のカードをたくさん買って、至る所に置くようなおフザケは、絶対にやってはいけないぞ!!
※カンボジア・ラオスの旅 no.7に続く →→→
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*引用/参考資料
・D22 地球の歩き方 アンコール・ワットとカンボジア 2017~2018(ダイヤモンドビック社/2016年12月)
・戦争博物館 口コミ・写真・地図・情報 - トリップアドバイザー
・Tyrants and Dictators - Pol Pot (MILITARY HISTORY DOCUMENTARY) - YouTube
・Les véhicules et armes fixes de BATTLEFIELD BAD COMPANY 2
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カンボジア・ラオスの旅 [5] / カンボジア最後の遺跡と最後の晩餐 / 一瞬の出会い × 異国の音楽 × チョルモイ!!
交差点のような出会い
寺院と音楽
カンボジアのキャバクラ
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※前回の続き
出会いと別れの"プリア・カン"
カンボジアに来て3日目。カンボジアの空気にも馴れ初めてきた。3日目の予定は、昨日行けなかった遺跡を、昨日よりも"ゆっくり" "じっくり" 回ることだった。それは決して昨日までを適当に見ていたという意味ではなく、「感じる」という気持ちを大切にしたいという思いからだった。
まず初めにアンコール・トムの奥にある"Preah Khan プリア・カン"に訪れた。名は「聖なる剣」を意味し、ジャヤヴァルマン七世がチャンパ軍に勝利した記念として建設され、父ダラーニインドラの菩提寺(ぼだいじ)とされている。範囲は非常に広く、室内でないオープンな通路が数多くあり、ギリシア神殿のような2階建ての建物があることも特徴だ。昔は、仏教の教養を学ぶ場でもあった。
入り口を過ぎると各国の説明文があった。日本語もあった。
長い通路の途中には、絵を描く男性がいた。絵を描き続け生計を立てているようだ。
入り口は他の寺院と同様に尊厳のある姿をしていた。
中はいくつか崩れている箇所が見受けられる。
デバターも立体的。綺麗に残っていた。
少し中を歩いていると、片側の出口に出た。首なしは人の想像を活性化させると思う。
太陽の下、見上げた緑は輝いて見えた。
昨日の"タ・プローム"同様、木々が遺跡と一つになっていた。
2階建ての建物は、(行ったことはないが)ギリシアを感じさせた。なかなか伝わりづらいかもしれないが、キン肉マンのロビンマスクがいそうな気がした。
改めて言うが、首なしは人の想像を掻き立てる。
時間が来たので、アンさんとの約束の場所に行こうと中央の通路を歩いていた時。僕は一人の女性とすれ違った。
僕がバンコクからカンボジアに来る飛行機の中でのこと。その飛行機は、中央の列の両側が3人席になっている仕様だった。僕はその左側の3人席の中央だった。僕の右側は日本人の女性、左側は中国人風の女性。僕は3人席の中央だったけれど、小柄な二人だったので楽に座れてよかったな、程度に思っていた。右の日本人女性は通路を挟んだ反対側に座る友人と来ているようだ。終始楽しく話していた。少し日本人女性と話をしたら、卒業旅行で来ているという学生なんだという。二人でアジアを回っているらしい。最終的に「楽しみましょう」と会話をして話を終えた。
そうして数時間、飛行機はカンボジアへ近づいた。乗客は入国審査に必要な用紙を記入し始めた。僕もカバンからペンを取り出して、「地球の歩き方」を少し確認しつつ、一つずつ事項を埋めていった。ホッと書き終えた瞬間だった。左側から「ペンを貸してくれませんか?」という綺麗な日本語が飛んできた。先ほどの中国人風の女性だった。「いいですよ。」と僕は答え、ペンを差し出した。彼女はすらすらと用紙を書き終えると、「ありがとうございます。」とペンを僕に返してくれた。おもわず「なんでそんなに日本語がうまいんですか?」と質問した。話を聞くと、彼女は横浜国立大学に中国から留学しているという。それから、建築関係を学んでいること、日本の大学で日本人に未だに慣れないこと、中国の生まれた場所などを教えてくれた。その代わりと言ってはなんだけれど、僕も受験で横浜国立大学に落ちたこと、土木関係を学んでいたこと、中国は上海に行った事があることなどの話を返した。でも、僕は不思議な感覚を感じていた。自分のことを彼女に話しているようで、僕は僕に向かって話をしているようだったからだ。今までの僕はどう生きてきたか、どんな失敗や学びを得てきたか、なぜ自分は今カンボジアに向かっているのかなど、一つ一つを確かめるみたいに。
そんな中国人の彼女と僕は、カンボジアのプリア・カンという同じ遺跡で、同じ時間、同じ場所ですれ違った。正確には、僕が気がついただけで、彼女は気がついていなかった。ふっと声をかければ、何か世界が広がったかもしれない。けれど僕は声を送りはしなかった。こういう出会いもあるんじゃないかと感じていたからだ。
全ての出会いがずっと続いていくわけではない。交差点を渡るように、長い道のりの中で、同じ時間、同じ交差点をすれ違うだけの出会いもある。彼女は、様々な出会いがあるということを教えてくれたのかもしれない。今も彼女は勉強をがんばっているだろうか。
"ニャック・ポアン"で音楽とともに
"Neak Pean ニャック・ポアン"は、水面に浮かぶように水に囲まれた寺院だ。クメールの農耕文化を象徴しているという。行く通路はすごく細く、両サイドは水・水・水だった。
例えば世界が終わったら、世の中はこんな感じになるのだろうか。
でもなぜだか気持ちがすごく落ち着いた。水は人の気持ちを落ち着かせてくれるみたいだ。
細い通路をまっすぐ進むと場所が開けた。ニャック・ポアンには4面に「象・人・ライオン・馬」の頭部の石像が埋まっている。暗くて見えないが中央の暗い穴の部分には、象の頭部が埋まっている。ぜひ見てみたかった。
中央には円形祠堂。よく見るとナーガが巻き付いていてかわいい。
ニャック・ポアンの入り口には何店舗が出店が並んでいた。奇妙な人形が仲間になりたそうにこちらを見ていたので、写真だけ撮ってあげた。
movie: monokann: Music in Neak Pean of Cambodia - YouTube
カンボジアに来てから、訪れる寺院の3箇所に1つには、音楽バンドがいた。
使っているのはカンボジアでは伝統的な楽器。 馬尾の弓で演奏する弦楽器"トロー・チュー(胡弓)"。元々はタイの楽器で、昔は鰐(ワニ)の形をしていた弦楽器"ターケー(鰐琴)"。掌で音を鳴らす打楽器"スコー(太鼓)。日本でもたまに見かける楽器を使って、みんな無表情で演奏し続けていた(笑)。 目的は様々なようで、洪水の寄付だったり、小遣い稼ぎだったり。けれど、やはり音楽があるだけで寺院全体が柔らかく見えるのだから、音楽のありがたみを深く感じた。異国でもそれは変わりはしない。
空飛ぶ樹"タ・ソム"
続いて元々僧院だったという"Ta Som タ・ソム"へ。新緑の木々の中に神々しい入り口(西門)があった。
非営利組織"WORLD MONUMENTS FUND ワールド・モニュメント財団"の案内板もあった。タ・ソムはWMFのカンボジアスタッフによって最初に活動が行われた場所なのだ記載がある。
ちゃんと自分の写真も撮っておこう。
中は回るのにはほどよい広さ。数カ所に渡り石崩れが多く見られた。
内側も精巧に積み上げられていた。
タ・ソムの一押しはこの東門だ。裏側の緑を僕は見に来た。
東門の入り口を駆逐するほどに根によって包まれている。ラピュタのように、このまま空に飛んで行ってしまいそうだ。
「緑を感じる」。そんな自然なことを忘れかけていた気がした。誰かが言っていた、「旅は何かを見つけるためにするのではない、新しい視点を探すためにするのだ。」と。僕はその言葉に加えたい。「当たり前を思い出すためなのだ。」と
タ・ソムの出店。
オレンジの坊主たちが映える絵たち。こんな優しい絵を描いてみたい。
東メボン〜プレ・ループの宮殿
四隅の象が特徴の"East Mebon 東メボン"は、ラージェンドラヴァルマン二世によって建設された。これら象が何を意味しているのか、意味していないのか。
青空の中に聳える宮殿には、重い扉があり、大切な何かを守っているようだった。けれど、これは偽扉だという話がある。
青と赤茶色はすごく映えることを知った。
幾つかは無残にも崩れているものもあった。物はいつか壊れていく。
近くのプレ・ループに向かう途中、地元民がバレーボールに勤しんでいた。上裸の姿が熱気を感じさせた。
続いて"Pre Rup プレ・ループ"。東メボンと同じ作りながら、階層が高く、威厳を感じさせた。プレ・ループでは死者を荼毘(だび=火葬)していた場所が残っている。
寺院は崩れた部分が多いが、敷地は広く、階層がしっかりと感じられる。
上では権力者が、下には庶民が活動していたのだろうか。昔から、位の差というのはあったのだと実感した。
足だけのやつ。
待ち合わせ場所に向かうと、アンさんはスヤスヤ眠っていた。アンさんに聞くと、「Hatto-riは見る時間がすごく長いね。他の人はすぐ帰ってくるのに、Hatto-riはなかなか来ない。すごくよく見ているんだね。」なんてことを言っていた。一つ一つを六感まで含めてしっかりと感じたいという気持ちがある。
最後の遺跡"バンテアイ・サムレ"
この旅において、カンボジアでの最後の遺跡。「サムレ族の砦」という意味を持つ"Banteay Samre バンテアイ・サムレ"を訪れた。入り口正面は水場が広がっていた。僕は栄養補給のために、コカコーラ社のスプライトを飲んだ。喉への痺れと刺激を与えたい時は、大抵スプライトに頼ってしまう。世界共通の味だ。
最後の入り口。
入り口を入るとすぐに声をかけられた。「これ買わない?」。(無視して進もう。)
「上智大学アンコール遺跡国際調査団」の案内板。大学時代にこんな研究をしていたら、楽しかっただろうなと羨ましくなった。
東塔門の入り口は少し味気ない。けれど、人が少ないせいか、すごく穏やかな時間を感じた。
寺院内で、座る老人。
石一つ一つに年月の経過を感じる。
最後のデバターも不敵に笑っているように見えた。「また来なさい」と言ってくれていればうれしい。
座ってこの場所を感じていた。この場所に来た意味や、これからこの気持ちをどうするかも含めて。
「バイバイ、アンコール遺跡群。僕も僕の時間を過ごしていくよ。老いるかもしれないけれど、歳取ることを楽しみながら。」
最後に、「道がいい」。
カンボジア最後の晩餐
アンさんは、初日と同様に晩御飯に誘ってくれた。今回は初めから弟くんも参加だ。僕らは杯を交わしてカンボジアビールを飲み始めた。相変わらず弟くんはよく喋り、よく笑う。
飲み始めて30分ほどしたら、アンさんが電話をかけ始めた。すると数分後、一人の男の人が参戦した。彼はこの店の店長だといい、アンさんとは古くの友人だという。僕らは4人でまた飲み始めた。
弟くんが教えてくれたのだけれど、カンボジアビールは瓶の栓の裏に文字が書かれている。これはカンボジアビールを作る"Khmer Brewery クメールブルワリー" がやっている懸賞なのだという。もし当たりが出たら、高額商品が当たるらしい。テレビとかIphoneとか当たるみたいなことを言っていた。こういう日常に楽しみが含まれていることは素晴らしいことだなと感じていた。
先ほどの店長は2杯ほど飲んだら部屋を去っていった。赤い服を来た従業員のお姉さん達が新しいビールを出してくれた。と思っていると、奥の方で黒い服を来たお姉さん方が列を成していた。すると、その内の3人の女性がこちらの空間に向かってくるではないか。「どういうこと?どういうこと?」と困惑している僕に、2人は満面の笑みで笑っている。どうやら今日のお店はお姉さんが付くお店なのだという。「はめられた?・・・」と感じたけれど、僕は冷静に楽しく飲んだ。
僕の隣に来たお姉さんはわりと日本人顏のかわいらしい方だった。けれど、彼女は日本語も英語もわからない。僕はクメール語がわからない。アンさんと弟くんからのパスを受けるのがやっとだった。酒が入った彼らは後半は終始下ネタばかり言っていた。(下ネタは世界共通のようだ。)クメール語で乾杯は「チョルモイ!」という。しかし、少し発音を変え「チョンモイ」というと、ここでは言えない下ネタとなってしまうという。彼らは僕にその2つを交互に言わせては爆笑して、かなり上機嫌だった(笑)。
明日も旅が続くので、お会計を頼んだ。どれだけの額になったのか、日本なら1万は軽く超えるだろう。レシートがアンさんに渡され、僕も値段を見た。なんと約12万リエル(3,000円)ほど!これだけ飲み食いして、女の子も付いて、なんて破格の値段。カンボジア価格だ。じゃあ、「僕は4万リエル(1,000円)でいいね」とお金を出そうと思った矢先、アンさんが「Hatto-riは、10万リエル(2,400円)だ。」という。「こいつらは何を言ってるのか?」と頭にはてなが浮かんだ。明らかに僕よりもかなりペースも速く飲みまくっていたのに、彼らは2人で600円ほどしか払わない気だというのだ。「なんてやつらだ。最後にタダ飯食おうとしてきたな!」と思い、彼らにツッこんだ。すると、アンさんは「今、2人で4万リエルしかないんだよ。」と財布を全開で見せてきた。僕は口論をするのも面倒になり、2,000円ぐらいならいいかと払ってあげることにした。
カンボジアの物価と、日本の物価は違う。だから、僕らの高々1円も彼らにとっては大金になり得る世界があるのだ。居酒屋に行ったら一人3,000〜5,000円払うのが普通という、日本の法則に縛られている自分に気がついた。ここは、別の国、カンボジアなのだ。
とまあ、色々あったが、僕らが楽しくお酒を飲めたことに変わりはない。カンボジアの地元民の気持ちを少しでも教えてくれた彼ら2人に感謝したい。「オークン(ありがとう)」。カンボジア最後の晩餐は、楽しい思い出と共に終わりを迎えた。
正しいこととはなんだろう。間違っていることとはなんだろう。今、あなたがもつ常識は、どこか別の世界では非常識かもしれない。いい・悪い。安い・高い。おもしろい・おもしろくない。対となる言葉を決めつけているのはあくまで自分で、誰かにとってはそれは真逆の意味を持つかもしれない。「常識を疑え」。その頭が柔軟になった先に、また新しい自分が見えるのではないかと感じている。
※カンボジア・ラオスの旅 no.6に続く →→→
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*引用/参考資料
・D22 地球の歩き方 アンコール・ワットとカンボジア 2017~2018(ダイヤモンドビック社/2016年12月)
・Angkor - UNESCO World Heritage Centre
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